誰も見る人のいないところに咲いている花は、果たして「美しい」と言えるか?

 

これは、私が9年前にサレジオ学院に来て最初の「朝のはなし」で問いかけたものです。花自体には何の変化もありませんが、「見る人」がいなければ「美しい」という感情も評価も生れず、只々そこにあるだけ。結論として「花の美しさには、あなたの協力が必要である」と結びました。美しいと感じるあなたがいて、はじめて花の美しさは意味を持ち始めるからです。

 

では、誰も見る人のいないところでゴミを拾ったり、捲れ上がったマットを直したり、献身的に人のために何かをする行為は美しいと言えるでしょうか。誰も評価・賞賛する人がいないのです。もちろん、賞賛されたくて、評価されたくてしているのではないでしょう。でも、「だからこそ尊い」と感じるとすれば、人の心は理不尽です。しかし、本当の事を言えば、他者のために献身する行為に「だれかの評価」は必要ありません。行為そのものが「美しい心の現われ」として自明のことだからです。

 

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。

見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

(2コリント4・18)

 

サレジオ生の皆さん。Faccio io! と言って手を挙げるなんていうのは、ホンの入り口に過ぎません。隠れた善行をしれっとこなすための練習です。さあ、練習を重ねて先の先まで見に行きましょう。自分の美しさを知るために。