主の祈り <その2>
先週「主の祈り」が「わたしたちの祈り」、つまりグループ・共同体・社会の祈りであるという話をしました。皆さんには、「わたしの罪をおゆるし下さい」というのと「わたしたちの罪をおゆるし下さい」というのとではモノの見方がどのように違い、それがどのように行動に出てくるのか…という疑問を提起してあります。朝の話の時間はあまり長くありませんので、分かり易い例を挙げて説明してみましょう。
一人のサレジオ生が、とても急いでいる様子であなたの脇を走り抜けて行きます。数メートル先で、彼のサレジアン・バッグが歩行者に軽く当たってしまい、あなたは「あっ」と思うのですが、本人は気づく様子もなく、そのまま行ってしまいます。…さて、その時、あなたはその歩行者に対して「ごめんなさい!」と言うことができるでしょうか。それとも「他人のしたこと。自分には無関係」と決め込んで、黙って立ち去るのでしょうか。
結論から言えば、サレジアンには前者を選び取って欲しい。「わたしたち」という意識を持てる人間になって欲しい。誰かが取りこぼしてしまった部分を、自然にフォローできる人になって欲しいのです。落ちているごみを拾うのも、ちょっとした行き過ぎに対して気づきを与え合うのも、ルールを守るように励まし合うのも、すべては「わたしたち」を意識することから始まるのです。「自分のことだけを考える」という典型的な非効率性の罠に落ちてしまわないように、十分に注意しましょう。