「感謝祭」において「感謝は気付きから始まる」「気付けない人は感謝ができないので、幸せを取りこぼしてしまう」という話をしましたが、気付きを出発点とするのは何も感謝だけではありません。たとえば「反省」がその一つ。自分の「何が・誰にとって・なぜ・どのように」悪かったのかに気付くことができなければ、人は真に反省することはできません。

 

ところで、感謝祭で「儀式には相応しくないノリ」が指摘・注意されましたが、この時、皆さんは何に気付き、どのように感じ、また考えたでしょうか?学校という狭い世界の中にも様々な立場の人が居て、それぞれの立場から、それぞれの視点を通し、それぞれの意見・印象・考えを心に抱いたはずです。正義感から「あのような態度は絶対におかしい!」と義憤に駆られた人も居たでしょう。厳しく対処すべきだという意見も、逆に、このような時こそ愛情を示そう…という意見もあるでしょう。今日はわたしが考えたことを共有したいと思います。

 

この件についてじっくりと黙想し、気づきが与えられ、そして反省しました。「道理・信念・愛情に基づくドン・ボスコの教育」を実践できなかった数々の失敗を想い起こし、「愛されていると感じさせる」ことのできなかった自分を悔い、「納得に根差した教育」の大切さについても再び考えさせられました。長期的に見ればですが、生徒の逸脱は教育共同体全体の過失でもあり、指導者の課題でもあるわけです。わたしとしては、失敗をした生徒をたしなめると同時に、自分の不完全さを赦して欲しい気持ちが湧き起こってきます。チームであれば、誰かの過失は全体の課題のはずです。今回あらためて、肝に銘じておきたいと思います。

 

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