「見る、聞く、話す」:無関心からの脱却
始業式での話
あけましておめでとうございます。
生徒の皆さん一人一人にとって今年一年が神様の祝福に満たされた一年でありますように
お祈りいたしましょう。
特に大学受験を目前に控えた高校3年生のために。
「主の祈り」
さて今年は申年です。
さる年といえば有名な「見ざる聞かざる言わざる」ですね。
「とかく人間は自分にとって都合の悪いことや相手の欠点を、
見たり聞いたり言ったりしがちだが、それらはしないほうがよいという戒め。」
の意味で使われています。
一方「見ざる聞かざる言わざるはよくない!」という意見もありました。
「しっかり情報を集め(聞く)、情報を精査し(見る)、自分の言葉で表現する(言う)」
ということでしょう。
「サレジオ生として、何を見て、どう判断して、誰に伝えるのか?」
もう一回考えてみましょう。
この問いに対してフランシスコ教皇様がされた年頭の挨拶はとても示唆に富むものです。
「昨年は、最初から最後まで戦争とテロ、そして悲惨な結果である監禁、
人種的・宗教的迫害、汚職に見舞われました。
新年を迎えるにあたり、わたしは、無関心に打ち勝ち、平和を獲得するために、
こうした事実を認めるよう皆さんに呼びかけたいと思います。
苦しんでいる人々の叫びに耳をふさぎ、安穏で快適な生活を送っているひとがいます。
知らず知らずうちに、わたしたちは人々や彼らの抱える問題に共感できなくなり、
彼らに気を配るくとに関心を示さなくなってしまいます。
まるですべては他人の責任で、自分には責任がないかのようです。
他の人々の苦しみ、彼らが耐え忍んでいる不正義などに関心を示さず、
わたしたちの心は冷たくなっていきます。」
教皇様は無関心がグローバル規模で蔓延しているから、
この無関心から脱却しよう、と訴えています。
ところで無関心とは何でしょうか?
英語ではIndifference。でもなぜindifference が「無関心」という意味になるのでしょうか?
接頭語In はnot(否定)ですから、
全体は difference 「違う」の否定「違わない」という意味になります。
「違わない」がなぜ「無関心」という意味になるのでしょうか。
実は違うのに、同じだと思う、
よく見ると違いが見えるはずなのに違いが見えてこないその根本的態度が「無関心」です。
無関心、冷淡だから「見えない、聞こえない、言えない」
まさに「見ざる聞かざる言わざる」です。
世の中は「見ざる聞かざる言わざる」の冷たい無関心が蔓延しているから、
この無関心から脱却しようと教皇フランシスコは呼びかけています。
さて、12月のクリスマス街頭募金は
内戦下にある南スーダンの教育施設の設立のために行いました。
皆さんは南スーダンて働くシスター下崎に来ていただいて話を聞き、映像を見て、
それに基づいて街頭で声をあげました。
これは一つの「見る、聞く、話す」機会でした。
そして今後も継続してシスター下崎の活動を見て、聞いて、
さらにそこからアクションも起こせます。
サレジアンとして、世界にある貧困、戦争、差別といった不正義を見、その原因を探り、
それを周りの人々に伝えるということが皆さんにとって一つのチャレンジとなります。
無関心からの脱却にはもう一つの極があります。
それは私たちの周りの仲間に対して関心を持つことです。
自分と違う考え方、感じ方をしている仲間に対する配慮、相手が普段の彼と違う、
何か困っている、嬉しいことがある、その違いに気づき配慮する、
このような心を持つようにしましょう。
毎日の何気ない学校生活のなかでも「無関心からの脱却」はできます。
マザーテレサの言葉で締めくくります。
マザーテレサはこう言ったと伝えられています。
「愛の反対はなんでしょうか? 愛の反対は無関心です。」
皆さんも、「見ざる聞かざる言わざる」という無関心のメンタリティから、
「見る聞く言う」というメンタリティに自己変革をはかりましょう。