「良きサマリア人」に見る寛容の大切さ

先日、イエス様の有名な例え話「良きサマリア人」のお話をしました。「あなたは誰の隣人となりましたか」という問いは個人的行動選択と同時に、当時のユダヤ人とサマリア人の民族的な対立構造、宗教的差別意識という社会的な側面をも含み持った問いであるわけです。

 

「良きサマリア人」の例え話に限らず、聖書を読むとき、社会正義の視点から現在の社会の中にある諸問題に自分なりに取り組んでいくよう求められていることを意識しましょう。昨今、社会の中に分断を生み出す憎悪、偏見、差別意識が増長されているように思います。国籍の問題、難民や移民の問題などにイエス様はどう感じられているでしょうか。

 

また、新型コロナウィルスの蔓延もそれに拍車をかけているように思います。皆さんもご存知のように「自粛警察」という現象が日本社会の中に起こりました。「正しい自分は何をしても許される」という思い上がりが他者への攻撃を生み出します。

 

さらに感染してしまった方とその家族に対する憎悪の感情、嫌がらせ、差別的攻撃 . . . そこには「人の苦しみや痛み」を感じることのできない硬直した心が見て取れます。気をつけないと私たち一人一人の心の中にこのようなメンタリティーは忍び込んできます。

 

いつ、誰が、どこで感染するか分からないからこそ、お互いに寛容な心を持つようにしましょう。苦しんでいる人々、差別されている人々にイエス様がどう関わったかを知ることは私たちがどう他者を関わっていくべきかを示しています。

 

ちなみに菅首相が新型コロナウィルスに感染したトランプ大統領に送った I was worried about といお見舞いメッセージが文法的に誤りだという指摘がニュースに取り上げられていました。「うーん、そうかな?」と思い、マリオ先生やアーロン先生に聞いてみたところ I was worried about と過去形で表現することは英語の文法としても、お見舞いの言葉のニュアンスとして全く問題はないそうです。