2023年07月13日
まことのゆたかさ=いっしょにしあわせになること!
個人的には「まことのゆたかさ」こそが、いま最も大事だと考えます。相手といっしょに笑顔でよろこんでいられる心のゆたかさ! いっしょにしあわせになること! ひとりひとりがゆたかな人になる必要があるし、組織もゆたかにならないといけないでしょう。自己中心的な独り占めのゆたかさではなくて。相手を大切にして支えることで、いっしょによろこべるという意味での「まことのゆたかさ」。自分独りだけがゆたか(自己中心主義)でもいけないでしょう。しかし自分が痩せ我慢し、相手だけがゆたかになるだけ(極端な自己犠牲)でもいけないはずです。自分も相手も、いっしょにゆたかになることが重要です。
世間で盛んに言われる「まずしい教会」とか「まずしい人とともに」という表現を耳にすると、どうしても逆の方向に踏み出したくなります。「まずしい」という表現そのものが、なにか残念です。徹底したまずしさを生きたアッシジの聖フランチェスコ(1182-1226年)の生き方にしても、自己中心主義的な立場の人々からみれば「まずしく生きている」ように見えてしまうのでしょう。聖フランチェスコの立場から見れば異なった景色が見えていたはずで、「あらゆる人やあらゆる生きものといっしょにゆたかに生きていた」はずです。
ともかく「相手を大切にすること」だけが大事であるとおもいます。「相手」に集中すること。ただ、それだけです。相手を相手として観ること。決して相対化しないこと。大勢のなかのひとりとしてではなくて。ただ「あなた」としてだけ向き合うこと。
マスコミ目線で見ると、現在の教皇フランシスコ(1936年-[在位2013-])の姿は「まずしい教会」という立場を打ち出すリーダーとして映るようです。しかし教皇が目指すのは、もっと深いことです。「相手を相手として大切にすることに全力を尽くす共同体づくり」です。
「いっしょにしあわせになる」という視点を、41年がかりで手にいれました。ずいぶんと時間がかかりました。仏教からキリスト教に転身した41年前は、「自己中心的な性質」を「自分で努力して正しく生きるキリスト者としての道」へ無理やりシフトさせようとしていて、結局は変われませんでした。「自己中心的な修行」しかできませんでした。まず相手の価値を認めて、いっしょに愉しく生きる道(相手も自分も、ともにしあわせになる道)が重要です。