突然ですが、「わんこそば」はお好きですか?お椀に入れられた一口大のおそばをツルッといただくと、後ろに立って、お椀が空になるのを待っていたお給仕さんが、アイヨッとばかりにおかわりを入れてくれる。…あのわんこそばです。榎本神父が大好きなのは容易に想像がつくでしょう。「大好き」といっても、そのそば自体を特別に好きなわけではなく、そのシステムが好きなんですね。食べても食べても一向に減らない。お椀が空になることが無い。わんこそばには、「おもてなし大賞」を授与したいと思います。
 ところで、「神様は、わんこそばのお給仕さん説」を御存じありませんか。御存じないのが当たり前で、わたしが始めたたとえ話に過ぎないのですが。ちょっと聞いて下さい。
 はじめに神様は、私たちにお恵みを下さっています。ところが、私たちには頂いた恵みがホンの僅かに感じられてしまうのです。そこで、その恵みを使い切ってしまうのを恐れ、それにしがみついてしまいます。頂いた恵みとは、優しさ・思いやり、あるいは、素敵な笑顔やもてなしの精神。場合によっては、食べ物やお金に形を変えているかも知れません。いずれにしても、私たちが誰かを幸せにできるようにと与えられたすべてのもの。私たちは、持っている物を使い切ってしまうのが怖いのです。
 この恐れは、わんこそばのお給仕さんのように、神様が、新たなお恵みを下さろうとしていることに気付いていないことから来ています。「神様はケチケチしている」と思い込んでいるのです。しかし、実際には神様はお恵みを与えたくて仕方ない。うずうずしていると言っていいでしょう。でも、どうやったらそれを確かめることができるのか。…使い切ってしまうことです。
 お給仕さんだって、お椀が空にならないうちは、お代わりを入れてくれません。神様も、使い切らない才能に継ぎ足しはしてくれません。恐ろしいですか。恐れは愛と対極をなすものです。