宗教と科学
赤色
こんな話を聞いたことがありませんか?
「あなたが赤と感じているその色を他の人も同じ色として感じ取っているかどうかは確かめようがない。」
これは、色に限ったことではなく、熱い・冷たいとか、甘い・辛いとかも同じなのですが、人が赤を認識するとき、まず、可視光線の内の比較的波長の長いものが網膜に辿り着き、そこからどうなるのかは良く知りませんが、とにかく、ある種の信号が脳に送られ、脳がそれを「赤」という経験と照らし合わせて「ああ、赤いね」となる。
しかし、そのような機械的なシステムと、赤という色の持つ赤さ(…これを質感と言うそうです。)とは直接的な結びつきがありません。
脳にその信号が届いたときに緑色に見えたって黄色に見えたっていいのに、なぜ赤く見えるのか。実は、この質感というものが一体どこからやって来るのか、科学で説明できるようにはならないだろうと言われているのです。
以前「心はどこにあるのか」という話をしたときに、人は科学で十分に説明できていないものであっても、それについて確信を持つことができると結びました。
しかし、心については「脳の働きである」と主張する学者もたくさんいます。そうかも知れません。そうでないかも知れません。
ただし、たとえそうだとしても、今日述べた「質感」については脳の働きとして説明ができません。質感とは脳のシステムの外にある概念であり、それを私たちが確実に受け取っているのですから、私たちは脳の外にいるということになりはしないでしょうか。
宗教は非科学的だと表現する人々がいますが、当たり前です。
宗教と科学とでは興味の対象が全く違うのですから。
それでも、信仰と理性とが相反するようなことがあってはなりません。
そのようなことが無いように、色々なことを色々な視点をもって、しっかりと学んでください。
中途半端はいけませんよ。
榎本飛里