「自分星人」?
昨日、カトリック研究会で「ぶどう園の主人が、朝早くから働き続けた人と、夕方になってから働き始めた人とに同じ賃金を支払う」という聖書のたとえ話を読みました。参加者には、それぞれの登場人物の立場になって考えてもらいました。すると、同じ出来事(=事件)について述べているのに、立場によって感じ方・考え方が全く違ってくるから面白い。たとえば、ぶどう園の主人に対する評価。同じ生徒が、一方では「何を考えているのか分からない人」と批難したかと思えば、もう一方では「心の広い、感謝すべき人」と称賛する。まるで正反対です。
ところで、これが何を意味するか分かりますか。そう、「人の立場になって考えなければ、見えないことがある」ということですね。逆に、そうしなければ「見えないことだらけ」ということでもあります。校長先生が「見えないものに心を向けよう」と強調なさる意図は汲めているでしょうか。視野を広げ、幸せをつかみ、ひいては多くの人々を幸せに導ける…そんな男に育って欲しいのです。
反対に、自分の事にしか関心が無く、人の立場を考えようとしない人、…このような人のことを「自分星人」と呼びますが(呼びませんが…)、自分星人は「てんで分かっちゃいない奴」です。そんな人は自分を不幸にし、愛する人々を不幸にし、愛してくれる人々を、そしてあらゆる人々を不幸に巻き込んでしまうものです。皆さんなら、そんな人を見かけたら、一体何と声をかけてあげるのでしょう。
愛するサレジオ生の皆さん、私はあなた方について話をしているのです。
駅や路上で、スマートフォンに夢中になって、物理的にも心理的にも視野狭窄を起こし、物質的にも精神的にも人を傷つけ、それでも気付かないフリ、聞こえないフリ。…いつまで自分の良心を欺き続けるつもりでしょう。いい加減に目を醒まそう。自分の魂が汚れてきているのが見えていないのですか。