2020年03月29日

教皇フランシスコ、コロナウイルスの収束を祈る

本校のホアン先生が役してくれました。

「夕方になって‥」(マルコ435)先ほど宣言された福音はそのように始まります。数週間前からすべてが暗くなってしまったようです。深い暗闇がわたしたちの広場や道路、そして町全体を包み込んでいます。その暗闇は徐々に私たちの生活を奪い、聞こえなくさせるほどの静けさと、すべてを停止させてしまう虚脱感を抱かせました。このことは人の仕草や目線、そして空気にまで現れています。私たちは脅え、途方に暮れています。福音に出てくる弟子のように、私たちも突然現れた「激しい突風」に驚いています。虚弱で困惑した私たちは皆同じ船に乗っているということに気付きました。しかし同時に、私たちは互いに励まし合いながら船を漕ぐために必要不可欠な存在でもあるのです。この船には皆が乗っています。あの弟子たちのように、私たちも脅えながら声を一つにして言うのです「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」(438)と。皆が別の方向を向いていてはいけない、一致してのみ乗り越えられるということに気付かされます。

私たちは容易にこの場面に共感できますが、イエスがとられた態度は中々理解し難いのです。弟子があっけにとられ絶望している時にイエスは最初に沈む船尾(艫)に横たわっています。そして、何をしましたか?周りの騒がしい物音に構わず寝ていたのです。父なる神にすべてを委ねています。福音の中でイエスが寝ている場面は唯一ここだけです。眠りから起こされて風と波を静められると、弟子に向かって咎めるように言いました「なぜ怖れるのか。まだ信じてないのか。」(440)と。

理解に努めてみましょう。イエスの確信とは対照的な弟子の不信仰が語られますが、具体的に何が問題だったのでしょう。弟子はイエスに対して信仰を失っていないはずです。事実、彼に助けを求めています。では、どのように呼び求めていたでしょうか。「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」(438)と言っています。イエスは彼らを「構っていない」、つまり、彼らに対して無関心であると思ったのです。家族内や他者との関わりの中で、私たちを傷つけ、心に激しい突風を起こさせるのは「私に興味ないでしょう?」という疑惑ではないでしょうか。イエスも恐らくこの言葉に揺さぶられたことでしょう。なぜなら、私たちは彼にとってかけがえのない存在だからです。実際、呼び求められると直ぐに立ち上がり弟子たちを救ったのです。

嵐は無防備な私たちをさらけ出し、私たちの予定、計画、日課、優先順位を形成していた浅はかで偽りな心の安定を浮き彫りにしてしまうのです。また、私たちの生活と共同体を本当に養い、支え、力付けるものを疎かにしてしまっていたこと思い起こさせます。

(一部省略)

人から良く思われようと、私たちの利己心を着飾っていたメイクアップはこの嵐によって洗い流され、私たちが避けることのできない共通の属性を新たに明かしたのです。つまり、兄弟であるという属性です。

「なぜ怖れるのか。まだ信じてないのか。」神様、今晩この御言葉は一人一人を問いただしています。あなたが愛しておられるこの世は、不可能なことがないかのような自信に満ち溢れた態度で著しく発展してきました。利益の取得に貪欲になり、物質的なものに吸収され、慌ただしさに煽らされています。あなたの呼びかけに耳を傾けませんでした。この世の戦争、不正を前に目を瞑りました。貧困者と酷く侵された地球の叫び声に耳を傾けませんでした。私たちは、汚染に気付付けられた地球にあって自分たちの健康ばかりに気を留めました。この荒れた海の中であなたを心から呼び求めます「主よ、起きてください」。

  「なぜ怖れるのか。まだ信じてないのか。」神様、あなたは私たちを信仰に招いておられます。あなたが存在するという信仰に止まらず、あなたに近寄り信頼することを求めておられます。この四旬節にあって、あなたの力強い招きが響きます「回心しなさい」、「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」(ヨエル212)と。この試練の時期を選びに時期と捉えるように招いておられます。あなたの裁きのときではなく、わたしたちの判断の時です。つまり、真のものと過ぎ去るものを識別するとき、必要なものとそうでないものを識別するときなのです。あなたに向かって人生の方向転換をするときです。そうして隣人にも向かうのです。私たちの同胞にはこの恐怖を前にして人生を捧げながら奉仕している模範的な人々がいます。聖霊が注がれることによって生じる豊かな奉仕の業です。聖霊によって、私たちの生活が忘れられがちな普通の人々によって支えられていることが示されるのです。この人々は新聞や雑誌の表紙も飾らないし、テレビ番組で注目も集めないでしょうが、間違いなくこの危機の最前線で明日を切り開いています。医師、看護師、食品補充員、清掃係、介護施設の職員、運輸事業者、警察や軍隊、ボランティア、司祭、修道者、そして他にも多くの人が、誰も一人っきりでは救われないということを証ししているのです。社会の本当の発展が明らかになる恐怖の前でわたしたちはイエスの司祭的祈り「全ての人を一つにしてください」(ヨハネ1721)を体験します。多くの人が日々忍耐強い態度によって希望を与え、恐怖心ではなく連帯責任を抱かせています。多くの父親、母親、祖父母、先生方が日常の些細な行動を通して子どもたちに危機的状況をどう乗り越えるか示しています。具体的には、平常の活動を状況に適応させたり、遠くを見据えることを教え、祈る態度を促しています。多くの人が共通善のために陰で祈り、犠牲を捧げています。祈りと沈黙の奉仕こそが勝利をおさめるための武器です。

 「なぜ怖れるのか。まだ信じてないのか。」信仰の始まりは救いを必要としていることを悟ることです。私たちは自己完結できない存在です。一人ぼっちでは沈んでしまいます。昔の船乗りが星を必要としたように私たちは主を必要としています。イエスを私たちの人生の船に迎えましょう。私たちの心配を彼に渡して彼とともに乗り越えましょう。イエスが共に乗っていれば絶対に沈没することはないということを弟子と同様に体験しましょう。私たちに降りかかる出来事を全て、悪い出来事をも神は良いものに変える力を持っておられます。彼は嵐の中に静けさをもたらします。なぜなら、彼と共にいるなら尽きることのない命に与るからです。

 主は、この嵐の中にある私たちに向かって目覚めて連帯意識と希望をもって沈没しそうな状況に対して立ち向かい意味を見出すように呼び掛けておられます。主は、私たちの復活の信仰が生き生きと目覚めるように起きられます。私たちには錨があります。救いの十字架です。また、舵もあります。私たちを救い出した十字架です。希望があります。彼の十字架において私たちは癒され包み込まれ、もう何も神の贖いの愛から私たちを引き離すことはできません。ロックダウンによって出会いと愛情をはじめ、多くのものが欠如している今、もう一度救いの知らせを受けましょう。彼は復活し、共におられます。主は十字架上から、私たちを待ち受けている命を見出すように呼び掛けています。私たちの力を必要としている人々の声を聴いて、受けた恵みが豊かに広がるように私たちを駆り立てています。「暗くなっていく灯心を消すことなく」(イザヤ423)希望をいただきましょう。

  十字架を抱きしめることは、直面している困難を抱きしめることです。自分たちが全能であるという妄想を捨て、聖霊の豊かな創造性が発揮されるための場所を用意しましょう。誰も除外されないで迎え入れられる共通の場所を造り、兄弟愛と連帯感が実現させることです。私たちが十字架によって救われたのは、愛することを可能にする希望に与るためです。主を迎え入れることは希望を迎え入れることを意味します。これこそ、恐怖から私たちを解放し希望に与らせてくださる信仰の力です。

 「なぜ怖れるのか。まだ信じてないのか。」親愛なる兄弟の皆さん、、ペトロの信仰を宣言していること座から、嵐の海に光る星、国々の希望なる聖母マリアの取成しによって皆さんを神に委ねたいと思います。ローマと世界を包むこの列柱から、神の豊かな祝福が慰める腕のようにあなたがたに注がれますように。主なる神、世界を祝福し、身体には健康を、心には慰めをお与えください。「恐れるな」と言われますが、私たちの信仰は弱く、恐れています。しかし、主よ、私たちをこの嵐の中で見捨てないでください。あなたはまた、「恐れるな」と言われます。私たちは、ペトロと共に「思い煩いは、何もかも神にお任せします。神が、あなたがたのことを心にかけていて下さるからです」(1ペトロ57)