2020年08月07日

学校長講話@放送終業式

1学期の終業式を迎えることができました。まだ本来の学校生活とは程遠い段階ですが、一緒に終業式を迎えることができました。皆さんもマスク着用、手洗いやアルコール消毒の励行など自分と仲間の健康を思いながらしっかりと生活してくれました。また校内の消毒作業などを行った先生たちの貢献も心に留めてください。さらにご家族も犠牲を払っていたことと思います。すべての人に感謝です。

 

振り返ると3月の休校要請からバタバタの5ヶ月でしたね。ストレスもあったかと思います。1学期期末試験の結果を見ると皆さんは休校期間中、そして学校再開後もよく頑張りました。ご苦労様でした。皆さん一人一人を誇りに思います。

 

さて、今日は1学期にリモート朝の話でも触れた「主体性」についてもう一度考えてみましょう。「主体性」とは、「みんなが言うことを一旦横に置いて自分で考えてみる習慣」です。

 

イエス様は主体的に考えた人、「みんなそう思うかもしれないけど、私は違うと思う!」と言い切った人でした。例えば当時の宗教的なルールは社会的に優遇されている人のみが守れる、一方貧しい人はそのルールを守っていると自分と家族を養えません。貧しい人はルールを守れないため差別されていました。イエス様だけは「貧しい人を犠牲にするルールは神様の望みに沿うか?」と公言しました。

 

「自分はどう思うか?」今一度この主体的な姿勢を強調したいと思います。現在の様々な変化は今後どうなるか?永続するのか一時的なのか?変化の真只中にいる今私たちは主体的に一つ一つの変化を一時的なもの(アブノーマル)なのか、永続的(ニューノーマル)なのかをじっくり仕分けしていく必要があります。

 

ニューノーマルとはこれからの標準としてずっと続く価値、考え方、システム、環境のことです。つまりパラダイムシフトです。例えば休校期間中サレジオはリモートにシフトし、皆さんは配信された動画などを使って勉強したり、グーグル・クラスルームで各自が先生と生徒間のやりとりをしたりました。でもこれは学校が再開されても続くスタンダードです。

 

またコロナ禍を経て現在の社会全体のあり方をしっかり考えていく必要があります。マスクの常時着用、ソーシャルディスタンシングなどはおそらくコロナ禍が収束すれば必要がなくなるでしょう。これら一時的な行動様式であっても特別なこの状況においては社会的な責任として必須なものになります。

 

皆さんの電車の中で社会的責任を果たしているでしょうか。お互いの距離は保てない分、立ち居振る舞い、声の大きさには気を使う必要があります、つまりマナーです。時々近隣の方から皆さんの立ち居振る舞いについてご指摘をいただきます。このような時期だからこそ普段にも増して自分たちの行動を自分で考えて自分を律する姿勢が求められます。「今はこの状況だからこうしよう、我慢しよう、周りの人このことを考えよう。」相手の立場に立って考える。この姿勢はマスクの必要ないポストコロナでも生きるし、大切なものです。

 

行動様式からもう少し私たちの内面を掘り下げていきましょう。現在社会の中では不寛容、分裂、憎悪が幅をきかせています。これもコロナ禍の一つでしょう。感染者に対する差別、中傷、あるいは自粛警察などのファナティックな行動様式、そしてその背後にある価値観はさらなる不寛容、分裂、憎悪の連鎖を生みます。だからこそ社会状況で何が正しいかを冷静に自分で判断する主体性が私たちには求められます。流されない自分。そしてしっかりとした価値観です。私たちにとってはイエス様の価値観、弱いものの側に立つ価値観です。

 

今年度は休校期間から始まったので、毎年のように年間の学校目標をお伝えする機会がありませんでした。今年の目標は “Upright Youth with Christian Values” 「キリストの価値観を持った真っ直ぐな若者になろう」です。何箇所かにポスターが掲示されています。気づいたかもしれませんが、ドンボスコの前、中央にはサレジオ学院と思しき制服をきている生徒がいますよ。

 

イエス様の価値観を社会の中に実現しましょう、まずは教室の中で、そして公共交通機関の中で、自分はどう処すべきか、自分の周りに優先すべき弱者がいないか、を問うていく人になっていってほしいと思います。

 

(動画はこちらから↓↓↓)

https://www.facebook.com/salesio.gakuin/videos/315521943217657/