2024年06月20日

AIという道具をどのように使うのか

私たちは、AI[エーアイ;Artificial Intelligence;人工知能](註1)という道具を用いて何をするのかを、まず真剣に考える必要があります。人間の明確な目的意識が先にないと、道具を適切に使用できないからです。私たちは、まず何を目指して道具を用いるのかを集中して考えることで、正しく使いこなすことができるようになります。そのための基本的な方向づけをする際にカトリック学校の関係者も福音的な意図(キリストが他者を愛情こめて支える姿勢と重なるふるまいを目指すという意図)をこめる努力を積み重ねて積極的に関与しなければならないでしょう。ナイフという道具を、料理づくりに使えば他者を幸せにしますが、おどしに使えば他者を殺す武器になります。AIもナイフと似ています。使う人間の意図が大事です。

 

 歴史的には20世紀末に本格化したインターネットもAIのシステムも、もともとは軍事的な目的で開発されました。戦争を有利に展開する際に情報通信網や情報総括上の自動学習システムが不可欠となり、開発に莫大な資金と研究者とが投入されました。戦争の際の軍事行動の司令部から戦場の最前線の駐屯基地までの長距離での連絡を円滑に行うとともに大量の情報を正確に伝達する技術がインターネットやAIを生み出したのです。

 

人類の歴史をふりかえれば、戦争にまつわる様々な工夫から新しい技術やシステムが生み出された事実を決して否定できません。軍事的な道具が先に生み出され、その後で普通の生活を支える場面でも応用されるという順番で使用頻度が増すわけです。

 

教皇フランシスコは常に「心の状態」を強調します。どのような「心の状態」で道具を使うかを各自が真剣に考えるように、と痛切に訴えかけます。キリスト教の関係者は、この社会において「心の状態」を正しく保ち、キリストの愛情深さを反映するような人間の倫理観を他者に分かち合う使命を帯びています。各自の意識のもちかたを正しく保つことは、とりもなおさずキリストの愛情深さを基準にして生きることを基礎としています。

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(註1)いまのところAIという道具には心がありません(神との出会いの経験を成し遂げる場が道具には備わっていません)。AIは機械による自動的な学習のための専門的なシステムだからです。AIのシステムでは、機械的に数多くの情報を記憶してから比較検討することで処理する速度は圧倒的に優れています。ところがAIには人間の心の状態と同じ機能は整っていません。機械的な情報学習は無味乾燥な反復運動の繰り返しなのであり、人生の味わい深さ(知恵はラテン語のsapere[サペーレ;味わう、味がわかる、分別がある、正しい判断ができる]という動詞と関わりがあります)が欠けています(教皇フランシスコ『AIと心の知恵』2頁)。ということは、人生の機微を味わえる人間が主導的に責任をともなってAIという道具を適切に使用しなければならないのです。

 実に興味深いことに、人工知能(AI)という言葉が初めて提唱されたのは、まだコンピュータが開発される以前の時代の科学者たちが一堂に会して行われた1956年のイギリスのダートマス会議においてでした。つまり、まだ機械が開発されていない状況での理論的な議論のなかで人間の脳と同じ働きをする機械をつくる夢を思い描く科学者たちが自分たちの理想を論じ合ったことがAIの始まりだったのです。人間の脳の研究は1950年代初頭から始まっており、その際にわかっていたことは、人間の脳の神経細胞が0と1の組み合わせによる二進数の動きをともなう電気的なパルス(Pulse信号、脈動、電圧の値が律動的に変化する現象)で情報を処理していることでした(人間の脳の神経細胞に電気の脈動[パルス]が流れない状態と流される状態とを「0」か「1」という数字で表すことで脳の働きを説明できるという発想です。同様に演算装置に電流が流れない状態と流れる状態とを「0」か「1」という数字で表すことで大量な情報を処理するシステムがコンピュータで可能であるという予測がたてられました)。その後かなり時間が経過してから、人間の脳の神経細胞の情報処理の仕組みを真似して作られたのがデジタル式のコンピュータでした。科学者は人間の知能をコンピュータで再現できるはずだという夢をいだいたわけです。ところが、現在に至るまでコンピュータは演算装置に過ぎず、人間的な味わい深さやあたたかみを感じ取ることまではできないままですので、いまのところは人間の知能をすべて忠実に再現できてはいないのです(しかし量子コンピュータは0と1を瞬時に反転させつつ同時に表せる特性を活かして複雑な人間の心理状況を再現できる方向に向かうかもしれません)。