「待ち受けているものを見に行こう」
サレジオ修道会のイスラエル巡礼黙想会に参加して来ました。
移動中のバスの中からナツメヤシや糸杉・荒れ野の様子など、旧約聖書や新約聖書でおなじみのイメージが見えると、なんとか記録に残そうとカメラを向けては見るのですが、なかなか良い画が撮れません。納得のいかない画像を量産しつつ、無念のうちにバスを降りることになるわけですが、いざ降りてみると、車窓越しよりも遥かに見栄えのする景色が待っていることが少なくない。
まあ、コースが限定され、且つ揺れの激しいバスから慌てて撮るよりも、しっかりと足場を確保でき、落ち着いて自由にアングルを決められる徒歩の方が、良い画像を残せるのは当たり前のことです。しかし、被写体が車窓を流れていくときには「その先に何が待っているのか分からない」わけで、「これが最後のチャンスかもしれない」と固執してしまう。・・・先が見えないというのはそういうことです。
日常生活においてはどうでしょうか。既に知っている喜びや楽しみに固執するあまり、その場で足踏みしてしまい、「見たことが無い=体験したことが無い世界」に踏み込んでいく機会を先送りにしたり、あるいは、見逃したりしてはいないでしょうか。この夏、ボランティアをはじめ、未知の世界を体験して来た人も多いと思いますが、先生方や他の誰かがあなたに何かを提案する時、その人たちには、あなたに見えていないものが見えています。その先に何が待っているのかを知っている。
それを信じることができるかどうか・・・、鍵はあなたが手にしているのです。