『待降節がやってくる』
教会の暦では、明日から「待降節」というクリスマス(=主の御降誕)を待つシーズンが始まります。そこで、今日は「神の独り子が人間になった理由」について、少しだけ考えてみたいと思います。
一時期、わたしは鉄道保線の仕事をしていました。たとえば、夜中、終電が走るころに現場に赴き、終電が走り過ぎるのを待って新幹線のレールの高さを調整したり、在来線のポイントを交換したりといった仕事です。
レールの高さ調整ですが、まず、レールに耳を付けてレールの上を遠くまで見通します。すると、レール上面が鏡のように見えるのですが、よく見ると上下にうねっているのが分かります。そこで、もう一人の保線員がバールをもってレールの上を指し示しながら歩いていくと、眺めている人は「そこ、〇㎜上げ!」のように指示します。指示された場所のレールのボルトを緩め、下に〇㎜の鉄板を敷き、ボルトを締め直してうねりが直れば終了、直らなければ振り出しに戻ります。上から見るだけではうねりは見えてきません。
視点を下げることでしか得られない視野があります。イエスは神ですから全知全能なわけですが、その枠に安住するのを嫌い、人間と同じ弱さを身に帯び、そこから出発することを望まれました。レールの高さ調整について学んだとしても「冬のレールの冷たさ」までは体験できないように、同じ「知る」でも知識と体験では天と地ほどの隔たりがあるからです。
救い主は「人々の苦しみ・痛みを自ら体験する」ことを望まれました。真の共感を持つためです。クリスマスは、神の独り子が「あなたの苦しみ・痛みを理解するために神という特権を捨て去る」ところから始まります。
(今年も正面玄関にプレゼピオが設置されます。来週から作業が始まります。)