恵みに気づくこと
サレジオ生の中でも「サギ音楽教室」の名を聞いたことのある人は少ないでしょう。じつは榎本神父が、自分がまともに演奏できないくせに、ギターやベース・打楽器などを人に教えているのを自己卑下して「サギ」と称しているわけですが、報酬を貰っているわけではないので問題ありません。
このレッスン、昼休みや放課後・早朝といった時間に行われているのですが、実はレッスン生に良くすっぽかされています。レッスン生のために、環境を整え、時間を調整し、予約がバッティングする他の人の申し出を断りして待っているのですが、何の連絡もなく現れない。しかも、あとで謝罪に来るでもなく放りっぱなし。…厳しい表現かも知れませんが、まあ、人間としてはダメダメですね。では、なぜこのようなことが出来るのでしょう。それは、自己投資をしていないからだと思われます。(今日の話は、先週の谷神父様のお話へのレスポンスとなっています…)
つまり、先に述べた「報酬を支払っていない」ことに端を発していて、ふだんから世俗的なモノの見方が身についているので、「報酬を払わなくていい=価値が無い」と言う感覚に騙されているのです。自分に何が提供されているのか、その価値を見出すことも気付くこともできず、まして感謝することなど及びもしないこの体たらく。…やれやれです。もし、わずかな犠牲を払うだけで価値あるモノが手に入るとしたら、それは誰かが代わりに犠牲を払ってくれているのだと、それくらいのことに気付けないようなサレジアンではないはず、…なのですが。
鈍い人というものは、自分に結び付けて物事を考える力に劣っている場合があるので、この際はっきりと実例を挙げておきましょう。先生方が実施して下さる補講・部活動・未来塾・助け合いの傘・自習室・毎日のお弁当・あいさつ…。誠実に、一所懸命に取り組んでいる人々ほどその価値を見出し、そしてその恵みをモノにする。価値が低いと思い込み、手を抜いている人間は益々鈍くなっていく。
「持っている人は更に与えられて豊かになるが、
持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」『マタイによる福音』13章12節