その時間をスルーとはもったいない

慣れ

人は日頃やり慣れている事柄に、特別意識を向けないものです。「前回と同じ」という感覚によって不安感が除かれた分、リラックスして物事に当たれます。駅の改札口や階段に掲げてある注意書きも、一々読んだりはしません。何が書かれているのかを知っているからです。こうして人は、その都度、様々なことに心を配るという煩わしさから解放され、それでも物事をスムースに行うことができるようになります。慣れる…ということはそういうことです。しかし、そこに落とし穴があります。

 

 疑問を持たなくなる危険

 

新しい何かに触れた時、あなたは良く観察し、調べ、吟味し、試し、……、様々な方法でそれを把握しようと努めます。そして、何とかして自分なりに判断し、自分なりの解釈を得て、自分なりに価値を決め、自分なりの効用を見出し……、とにかく自分なりの評価を確立していくことでしょう。ところが、一旦それが終わると、あとは「いつも通り」の始まりです。最初の内には、ある程度の変化が加えられるかも知れません。しかし、時が経つに連れて「同じルーティーン(=手順)の繰り返し」に収束して行きます。何も考えずにそれを行えるようになり、何も考えずにそれを行うようになるのです。

 

では、そのことの一体何が問題なのでしょうか。一つ身近な例について、考えて見て下さい。

 

サレジオ学院では、授業の始まる前に「瞑目」の時間をとっています。ところで、その目的についてあなたは自信をもって即答できますか。瞑目の時間に「一体何をするのか」分かっていますか。あなたは瞑目の時間をモノにしていますか。本当にそれが出来ていると自信を持って言えますか。それをモノにしている人とモノに出来ていない人では、何が違って来るか理解していますか。もし本当に理解しているのなら、家で勉強する前にも瞑目をするはずです。そして、このように瞑目の時間をモノに出来ている人と、ただ何となく過ごしている人との違いは歴然です。

 

あなたが、もし慣れに流されてしまっているのだとしたら、今日からでもしっかりと仕切り直して、本来の自分を取り戻しましょう。今日からの、皆さんの瞑目合戦に期待しています。

 

榎本飛里