お別れミサの君たちは…
また感動
前回、体育祭時直後の朝の話【6月11日付】で皆さんを褒めたら、「榎本神父は学院を離れるんですか?」と尋ねた人がいたということですが、今回もちょっとだけ褒めさせてください。河合理事長のお別れのミサのことです。当然、追悼にふさわしい態度で参加する旨、事前指導があったのでしょうが、それにしても立派でした。また、忙しい中通夜にも足を運んでくださった皆さん、人知れず祈りをささげて下さった皆さん、本当にありがとうございました。
さて、自分がとても世話になった人の死に直面した時、人はどのような感情を抱くものでしょうか。もちろん悲しみ、苦しみ、時に呆然とするわけですが、この他に、多くの人が自分を責めるのだということです。自分を責める、つまり「もっとしっかりと感謝を述べておくべきだった」とか、「少しも恩返しができなかった」とか「もっと何か自分にできることがあったのではないか」とか。そして、最早自分が故人のために何もしてあげられない状況に苦悶する。
気持ちは分かります。人の死を悲しむというのは、その人を愛している証しですから、存分に悲しみ、苦しめばいいのかも知れません。しかし、故人のために何もしてあげられないというのは勘違いです。「祈ることができる」などと言うつもりはありません。そうではなく、私たちはお世話になった故人の最も喜ぶことを、今からでも実行することができるのです。それは、成長すること、そして幸せになること。ことに、河合神父様のように教育者であれば尚更です。
これから先、多くの大切な恩人が神に召されていくのを体験することでしょう。どうぞ、その度毎に涙を流してください。しかし、一旦涙を拭いたなら、果たすべきことは既に決まっているものです。