痛い時期で終われない
先輩に学ぶ
サレジオ祭、本当にお疲れ様でした。
ところで、サレジオ学院の特徴の一つに「卒業生が繰り返し訪れる」という点が挙げられるかと思います。
先のサレジオ祭にも皆さんの先輩がたくさん来ていて、懐かしい思いをした人も多いのではないでしょうか。
私が保健室を訪れた時も数人の卒業生がいたので、少し話をしました。
今日は、その会話の流れの中で思い出した話を紹介したいと思います。
ある神父様がなぜ司祭という道に足を踏み入れたのか…という話です。
その人は、若い時にボランティアでインドに行っていました。
マザーテレサの運営する「死を待つ人々の家」で働いていたのだそうです。
そして、そこでの体験は、彼にとって特別なものとなりました。
何もかもが日本で経験することと違っていて、カルチャーショックという平凡な言葉では言い表し切れないものだったといいます。中でも、一生忘れることのできない出来事として彼の心に深く刻み付けられたのは、「自分の腕の中で人が死んで行く」という体験でした。
「死を待つ人々の家」の大切な仕事の一つは、人々が孤独のうちに死を迎えることが無いように、人々の死に寄り添ってあげることですから、あるいは、そこではそのような光景は日常茶飯事であったのかも知れません。
しかし、普通に日本で生活していては決して体験し得なかったであろうことを、彼は体験してしまったのです。
そして、その結果、人間に対する、人生に対する考え方が激変してしまった。
それまで、長い間積み上げて来た常識が、一瞬で吹き飛ぶような体験です。
これをきっかけとして、彼は司祭への道を考え始めるわけですが、私は何も、皆さんに神父になれと言っているのでも、海外ボランティアに行けと言っているのでもありません。
ただ、どこかで聞いたような理論を振り回して生意気な言葉を吐き捨てる…、そういう「痛い」時期を過ごすことが、君たちにとって必要で大切なことだとしても、決してそこで終わって欲しくはないのです。
様々な体験を通して、人がどう言ったとか、周りがどうしているとか、そういう曖昧な判断基準に惑わされない「本当の自分」をじっくりと作り上げて欲しいと思うのです。
期待しています。
榎本飛里