「良きサマリア人になれるのか?」
皆さんはルカ福音書10章の「よきサマリア人」のたとえ話を知っていると思います。
ある人が山道で盗賊に襲われ瀕死の状態にあるところを見た祭祀やレビ人は無視して通り過ぎたのに、サマリア人の人は丁寧に介護したという話です。
とてもわかりやすい話ですが、イエス様の言わんとすることを理解するためにはもう一つの視点を持つことが必要です。
それは「このたとえ話を聞いていた人はどんな人か?」ということです。人々は「人を助けることは大切だ」と知っていてもなかなか行動に移せません。
「助けようにも自分が手を差し伸べるべき隣人が見つかりません」と心の中で思っていた人々に対してイエス様は「あなたは困っている人に気づこうとしていますか?その人の隣人になろうしましたか?」と問い返しています。
隣人が目の前に現れてくるのを待っているだけでは結局、誰にも手を差し伸べないだろうとイエス様は手厳しく指摘します。
「私にとって隣人は誰か?」と「私は誰の隣人になったか?」という問いかけ、似ているようで全く違う姿勢だということが「よきサマリア人の例え話」のポイントです。
皆さんは学校生活での、そして登下校中での立ち居振る舞いはどうでしょうか。マナー、周りの状況に対する心配り、そして助けを必要としている人に気づく視線 . . . 今年度に入ってからも下級生を中心に登下校中のマナーに対して近隣の人から指摘を頂戴しています。恥ずかしいですね。
「あなたは誰かの隣人になろうとしていますか?」今日もイエス様は問いかけ続けています。