痛みを感じ寄り添うことこそ
おはようございます。
生徒会の諸君、有志諸君がカリタスの生徒さんたちのために千羽鶴を折ってくれたそうですね。関わってくれた生徒諸君には感謝します。先方の都合を聞き、届けるようにしましょう。
また亡くなった生徒さん、保護者の方の冥福を祈り、怪我をした生徒さんたちや保護者の方の1日も早い回復を祈ってくれた皆さんも数多くいると思います。ありがとうございました。私たちはこのような静かな形で辛い日々を送っている方々に寄り添っていくことができればと思います。
時間が経つにつれて思いを深くすることは、この理不尽な事件に日本中の多くの人々が深く傷ついているということです。それは「死にたければ一人で死ね」という言葉によく現れています。皆さんはどのように感じますか?被害者感情を代弁している正論だと思うでしょうか。あるいは「死ね」と発信することが社会に負のインパクトを与えるため慎むべきだと思うでしょうか。ネットでは両者の間で「許せない」という怒りの応酬が交わされています。しかし私には論の正しさよりも言葉の奥にある傷や痛みを強く感じました。
「一人で死ね」とは理不尽に尊い命が奪われたことに対する悲痛な叫び。「発信は逆効果」とは加害者と似たような環境の人の将来を思った涙。意見は逆でも両方とも等しく無力感に苛まれたやり場のない怒りと捉えられないでしょうか。もしそうなら、いや、そうであるからこそ本来すべきことは怒りにまかせて声高に議論するのではなく、沈黙のうちに目の前の傷ついた人を慮ることでしょう。
相手が傷ついていれば正論を振りかざすことは憚られます。今すべきことは、怒りにまかせて論敵を黙らせるのではなく、自ら黙して「辛いね。僕も辛いよ」という気持ちを伝えること、そして一人では立ち上がれないかもしれない誰かにそって手を差し伸べることではないでしょうか。
川崎の事件以降も痛ましい事件が続いています。負の連鎖を断ち切るためには正義という拳を振りかざした断罪ではなく、共に痛みを感じ寄り添うことで生まれる癒しが必要なのではないでしょうか。