「祈る心」
改めてあけましておめでとうございます。朝の話も今日からスタートです。
さて正月には皆さん初詣には行ったことと思います。ということで、今日は「祈る心」というお話をします。祈る時、人は何かの「ために」祈ります。自分自身のこともあるかもしれませんが、同時に家族のために、親戚のために、友人のために、さらに苦しんでいる人々のために . . . 祈る時「他者」に眼差しが向けられます。祈りとは「他者とつながる」とても人間的な行為と言えるでしょう。また祈る行為には2つのことが前提とされるでしょう。
最初の前提、それは自分を超えた偉大な存在です。祈りは自分を超えた偉大な存在に向けられたものですから、それを前提としなければ祈り自体が成り立ちません。祈りとはこの自分を超えた偉大な存在に向けた対話です。「なにごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」(西行)、その何かです。神でしょうか、仏でしょうか、人が祈りたいと思う時、両者に大きな違いはないかもしれません。そして同時にその偉大な何かを前にして自分は無力で小さい存在であることにも気づかされます。
二つ目の前提。それは自分が心を寄せる隣人の存在です。祈りを届けたい誰かがいる。その人のために何かしたい、何もできなくてもせめて祈りたい。自然と祈りが沸き起こります。祈りとは他者への開きの行為そのものでしょう。祈るという行為が持つこの縦と横へ広がりは私たちが自分一人では完結しない存在であることを雄弁に語っています。人は他者と関わりを通して初めて本当の自分を見つけることできるわけです。これを祈りの人間観とも言えるでしょう。
話は少し飛躍しますが慶應大学法学部の2014年度入試の論述の課題は「正義の倫理」と「ケアの倫理」というテーマをめぐるものでした。近代市民社会では一人ひとりの自由選択の権利こそが正義であるという主張されてきたが、実はこの個人の中で完結する人間観こそが私たちの自己実現を阻害し差別を助長してきたという指摘でした。
人は本来他者を必要とする存在なので「他者をケアする」という倫理規範、弱者に共感し、尊重する態度こそが真の人間社会を生み出すと筆者は言いたいのではないかと解釈できるでしょう。普遍的な自律的主体としての人間と捉える限り、それを目指す正義を追求する中で、その主体的選択をできないでいる弱者を救済することは不可能であるでしょう。逆に他者に向けて心を配ることによってこそ私たちは十全な人間となり、そのような社会の中で正義を確立するための自由意志として弱者の救済は行われていくのだと筆者は言いたいのではないでしょうか。
年頭あたり、少し他者と関わる存在としての人間という自己理解に通じる「祈る心」について少し分かち合ってみました。