「無常観というブレない視座」
前回は pandemicのpanについてお話ししました。今日はその続きです。
Panとくれば、「パンタ・レイ」でしょう。
「パンタ・レイ(万物は流転する)」とは有名なギリシャの哲学者ヘラクレイトスの言葉です。彼は人間も自然もすべてのものは時の経過ととともに変化することに着目し、それを「誰も同じ川に二度と入ることはできない」と表現したそうです。「万物」ですからやはりpanが登場します。
目を日本に転じれば、鴨長明の「行く川の流れは絶えずして . . . 」もこの思想に通ずるものがあるような気がします。彼の生きた時代は平安末期から鎌倉時代初期、まさに動乱の時代でした。
ヘラクレイトスにしても鴨長明にしても彼らはどうしてそのような思いに行き着いたか?これは大切なことを私たちに教えているような気がします。「パンタ・レイ」にしても「行く川の流れ」にしてもその背景には「ものの変化」から距離を置き、ある定点から観察する「主体」が存在しているのではないでしょうか。
ヘラクレイトスは目の前を流れる川の水を見ながらその奥にある「普遍的存在」に思いを馳せ、鴨長明は岸辺に立ちじっと目を凝らして「泡沫」の顛末を見たのでしょう。ヘラクレイトスにしても鴨長明にしても「流されない」自己、しっかりとした思索の土台、永遠なるものを見つめる冷徹な視点を持っていたと言えるのではないでしょうか。
「無常観」とは決してふらふらとして刹那的な生き方ではなく、確固とした視座があって初めて持てるものなのでしょう。「私たちは行き先が見えなくなると、不安になりどうしてもあたふたしてしまいます。こんな時にこそ変化に飲み込まれて翻弄されず、距離を置き落ち着いて見つめる「ぶれない視点」を持つことが大切だと二人は語っているように思います。
時間はそれ自体としては流れていくものだが、時間を自分のものとするためには「掴み取る」ことが大切。流れているものをしっかり掴むこと。しっかり掴むとはある目的のために全力を注ぐこと。精神と肉体をそこに集中せること。
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(3分19秒)