「エシカル」な渇きとしての「断食・施し・祈り」

 

 

先々週の榎本神父様のお話は四旬節についてでした。今日はその復習と続きです。

 

四旬節とはイエス様の復活に向けた準備の40日間を指します。イエス様の十字架上での苦しみ、そして死に思いを馳せます。そしてこの40日間キリスト教会は人々に3つの具体的な努力目標を勧めます。覚えていますか?

「断食・施し・祈り」です。

 

断食とは普段は自分の好きなものを好きなだけ食べているけれど少し我慢すること。

施しとは普段は自分の好きなものに好きなだけお金を使っているけれど少し我慢すること。

 

断食も施しは「やだなぁ」と感じている自分に目が行きます。でも自分がお腹が空いたこと、自分の財布からお金が減ること、それは「自分と同じように、あるいは自分以上に飢えている人がいる」「自分同じように、あるいは自分以上に貧しい人がいる」ということを気づかせてくれます。

 

断食、施しは自分の苦しみを通して、心の窓を開き、自分の外側、他者への心を届けるよう促すものなのです。自分の苦しみが本当の意味で「エシカル」なものとなるきっかけです。

 

そしてこの「エシカル」な渇きは昇華し、神様に向かいます。それが祈りです。

「神様、貧しい人を助けて下さい」

「神様、僕に貧しい人を助ける勇気をください」

「神様、なぜこの世には不正や不平等、悪があるのですか?」

「神様、僕には何もできません」

いろんな祈りがあるでしょう。でもそれは等しく他者を通して感じられる神様に向けてのものです。

 

キリスト教会が四旬節に「断食・施し・祈り」は勧めるにはストイックに修行をするためではありません。自分の苦しさを通して「他者、特に貧しく苦しんでいる誰か」に心を向けるように、真の意味で「エシカル」になるよう私たちを招いているのです。

 

募金活動、フェアトレードの機会があればぜひ参加してみて下さい。

 

10年前の東日本大震災にも心を向けて下さい。

 

またそれが皆さんにとって祈りの体験ともなりますように。