グローバル社会に向けて語る聖フランシスコの言葉
ISによる残虐な行為が大きく報道されています。本来のイスラム教の教えとはほど遠い残虐な行為には身が震える思いがします。犠牲者やその家族の方々悲しみを思うと相応しい言葉が見つかりません。
でもこの出来事は前例のない偶然の現象でしょうか。民族間の闘争、人種差別による迫害など様々な抑圧が数多く世界中にあります。そしてそこに共通して見えるのは憎しみ、攻撃の傾向です。人間は科学技術で「大きく」なったがその一方で、実現できることが増えたという意味で「肥大化」してきたとも言えるでしょう。つまり私たちは憎しみをコントロールすることが難しくなっている社会に生きているわけです。この現状を一つの言葉でまとめるなら「憎悪の噴出」です。
科学技術の発展で私たちは以前より簡単に世界を行き来することができるようになりました。ITテクノロジーの発達で私たち世界の出来事を瞬時に知り、またそれに対する考えを世界中に発信し、交換することができるようになりました。世界は以前より小さくなった、It’s a small world となりました。
しかしその小さくなった、一つになった世界で人々はより幸せになっているでしょうか。そうではありませんね。かえって憎しみがより容易に世界中に広がり、多くの人々を巻き込んでいく可能性がある、そんな世界とも言えるかもしれません。
憎しみはいつ起こるでしょうか。人が嫌いになる原因はどこにあるでしょうか。皆さんの日常生活から考えてみてください。おそらく「あいつなんでそんなことするかな」「なんでそんなこと言うかな」「あいつ違うよな」「あいつ何考えているか分らない」から始まると思います。そしてそれが「あいつムカつく」につながっていくわけです。憎悪とは自分と違うものを見たとき、それを否定しようとするとき、あるいは否定されたと感じた時に沸き起こるものです。精神性の成熟がないとき,人は憎悪に駆り立てられていくのです。
とするならば、世界中の人と出会うことが容易になった社会では、自分が否定したくなるような出来事、文化、人と出会う機会、それまでの共通基盤である自分たちの文化、宗教、メンタリティと違う文化、宗教、メンタリティを持っている人と出会う可能性が増えるということです。
それだけその人とコミュニケーションを注意深く、自分の心の傾きに注意深くあることが求められている。これが私たちの生きている社会です。私たちはそれをグローバル社会と呼んでいます。
よくグローバル人材の資質として英語がしゃべれることが挙げられます。確かに他の人と理解し合うためには共通の言語が必要です。英語はその入り口となるでしょう。でも英語がしゃべれることだけでグローバルな社会問題を解決するわけではありません。外国語を話すこととは本来、他者への心の開くことです。自分の隣にいる人、しかもその人が自分と相容れないものを持っているその人に対する畏敬の念と対話を続けようとする精神力こそがグローバル人材の資質と言えるのではないでしょう。
サレジオ学院としてみなさんにもそのような人物になってほしいと願っています。
他者への尊敬、とくに自分と違ったものを認め、対話をしていこうとする心を持った人、それがより良いグローバル社会を作り上げていく人、世界平和を促進する人材と言えると思います。
最後にアッシジの聖フランシスコの祈りをもってしめくくりたいと思います。
主よ わたしをあなたの平和の道具としてお使い下さい
憎しみのあるところに愛を
いさかいのあるところにゆるしを
分裂のあるところに一致を
疑惑のあるところに信仰を
誤っているところに真理を
絶望のあるところに希望を
闇に光りを
悲しみのあるところによろこびをもたらすものとしてください
慰められるよりは慰めることを
理解されるよりは理解することを
愛されるよりは愛することを
わたしが求めますように
わたしたちは与えるから受け
ゆるすからゆるされ
自分を捨てて死に
永遠の命をいただくのですから
FOR PEACE
LORD,
make me an instrument of Your peace.
Where there is hatred, let me sow love;
where there is injury, pardon;
where there is doubt, faith;
where there is despair, hope;
where there is darkness, light;
and where there is sadness, joy.
O DIVINE MASTER,
grant that I may not so much seek to be consoled as to console;
to be understood as to understand;
to be loved as to love;
for it is in giving that we receive;
it is in pardoning that we are pardoned;
and it is in dying that we are born to eternal life.