『変わるものの向こうにある変わらないものへの視線』
皆さんは松尾芭蕉の「奥の細道」を読んだことがあると思います。芭蕉の東北への旅は、平安末期、旅を好んだ歌人西行へのトリビュートの意味もあったそうで、それは旅立ちが西行の没後500年の節目の年だったことからも窺えます。
「奥の細道」を読むとき、そこには西行と芭蕉の心が時を超えて共鳴しあっていることを感じます。たとえば「奥の細道」では西行も訪れた平泉を訪ねています。もっとも西行が平泉を訪れた時にはまだ奥州藤原氏が栄えていた時ですから、きっとそこには館や寺院が煌びやかに甍を並べていたのでしょう。
しかし、それから500年経って芭蕉が訪れた時、藤原氏の繁栄の跡はほとんど残っておらず、そこにあるのは芒洋とした草原だけでした。そこで詠まれた句が有名な「夏草や兵どもの夢の跡」です。悠久な自然を前にして人間の営みの儚さに芭蕉は涙しました。
ただ芭蕉の平泉の滞在は全くの無常感で終わってしまったわけでもないようです。中尊寺金色堂を訪れた時には、「五月雨の降りのこしてや光堂」と詠んでいます。風雪に耐えて華麗さを未だ残している金色堂の輝きの中に芭蕉は人間の営みの力強さも感じていたのでしょう。それを雨の止み間に一筋の日の光に輝く金色堂と詠みました. . . 見事な心象風景ではないでしょうか。芭蕉の句には時間という旅の中にある「変わっていくもの」の向こうにある「変わらないもの」への気づきがあるように感じます。
無常観とは人生の儚さをいたずらに嘆くことではなく、変化の中にある確固としたものを見つけようとする強い精神力、そしてそこから生まれる未来への希望も含み持っているとも言えるでしょう。
マルティン・ルターはこう言っています。
「たとえ明日、世の終わりが来ようとも今日、私はリンゴの木を植えよう」
宗教家であり詩人でもあったルターも、自分の歩む旅の意味をしっかりと掴んで生きていたのではないでしょうか。