神様の無限な寛大さと自分の心の狭さ
キリスト教の神様を一言を表現すると?と聞かれると皆さんはどう答えるでしょうか。ヨハネの福音書には「神は愛です」と簡潔に表現しています。でも「神は愛」と言われてもすごく抽象的で、今一つピンと来ないかもしれません。マタイの福音書では、神様の愛について「神様は寛大だ!」と補足説明しています。「寛大」というともう少し具体的な心の動きや行動が見えてきますね。例えば . . .
プレゼントをあげる時、もう少しいいものを買ってあげよう
街頭募金のとき、被災地の人のために少し寄付をするか
頼まれたから一緒に宿題を手伝ってやるか
あいつも辛そうだから少し笑顔を届けてあげようか
あと究極に難しいのは
あいつを赦してやろう
ちなみに英語で「寛大さ」は generosity です。generosity の gene は「うむ」と言う意味です。geneを語源に持っている単語、例えば generate 「生み出す」、genuin 「生まれつきの」「本物の」、hydrogen「水素」「水を生み出すもの」などがありますが、みんな「生む」と言う意味が含まれています。
「寛大さ」 generosityが生み出すもの、それは、ポジティブな気持ち、「信じる心」です。寛大さに接すると「自分を赦して、信じてくれる人がいる」という心が生まれます。一人の人の寛大さは周りの人の中にポジティブな気持ちを広げていきます。
神様の特徴はそんな寛大さです。しかも究極の寛大さ、一人一人の人間がどんなに悪に染まっていても、絶対にそこから立ち直れるはずだ、これがイエス様の教えです。
先ほど紹介したマタイの福音書20章1節~16節の譬え話を読んでみてください。神様の無条件な寛大さは私たちの理解を超えています。自分も時として「なんであんな奴が許されるの?」とか「そんなの不公平じゃん」とか「正直者はバカをみる」と思ってしまい、「あ〜本当に自分はちっちぇ〜な〜」と反省することがあります。まぁこの辺のところは別の機会にまたお話ししましょう。それでは。