サレジアンも持つべきフェミニズムの視点

先週榎本神父さんが「理想と現実のギャップ」についてお話ししました。今日は理想と現実のギャップに悩んだ一人の女性を紹介しましょう。彼女は今から1000年も前、平安時代の京都に生きた人です。

 

お父さんは中流貴族で漢文に長けていました。お父さんは息子に漢文を教えていたのですが、その横では姉の彼女も一緒に聞いていました。ところがメインの息子より「ついで」のお姉ちゃんの方が遥かに上達しました。そんな娘を見てお父さんは「さすが我が娘!」と誉めるどころか、「お前が息子でないのが残念、わたしは運が悪い」に嘆きました。傷つきますよね。当時漢文は男性の教養、女性には無用で邪魔な能力でした。せっかくの漢文の知識を生かす場面は彼女には与えられませんでした。

 

実際彼女が天皇のお妃様中宮にお仕えする女房となった時、先輩の女房は才気あふれる彼女をあからさまに嫉妬しました。ですから彼女は漢文の知識をひた隠しにして「わたしは漢字なんか知りませ〜ん」というキャラを演じて過ごすことにしました。

 

彼女は、偽りの自分を演じている自分を「身」と表現し、押し隠した本当の自分、なりたい自分、自由な自分を「こころ」と表現しています。そして身と心のギャップを嘆くこんな歌を作りました。

 

数ならぬ 心に身をば 任せねど 身に従うは 心なりけり

(大した身分でもない自分の身だもの、現実が思い通り、心の願い通りにはならないのも仕方がないわ。)

 

1000年も前の話ですが、「女にはそこまで必要ない」と言うメンタリティーは今も変わっていないかもしれません。女性が理想を求めても社会がそれを許さない、これは古くて新しい現実であり、それを乗り越えて、男性女性に関わらず、一人一人が理想を自由に求めていける社会作り、それがフェミニズムです。もう分かると思います。フェミニズムは女性のための学問であるけれども同時に男性の持つべき視点、サレジアンの矜持でもあるわけです。

 

最後に。この女性は誰のことはわかりますか?そしてこの女性は「心」を実現できたでしょうか?この続きは来週にお話ししましょう。