セミと戦争
先日「ダーウィンが来た」という番組でセミの生態を紹介していました。長い間地中で過ごし地上で生活する時間は僅かなセミですが、そんな中でも13年、17年の地中生活を送る種類が北アメリカにいます。今年は13年セミ、17年ゼミが同時に成虫となる年でシカゴの街は初夏の日々セミの騒音で悩まされたそうです。13年ゼミと17年ゼミが同時に現れる周期はなんと221年、残念ながら私たちは次に13年ゼミと17年ゼミを同時に見ることはできませんね。もう気づいたと思いますが、13と17は互いに素数、自然の営みの中にそのような最小公倍数を狙ったような数学的な意思、理性も感じることができます。その理由は偶然の中で淘汰された結果なのか、あるいは理性としての存在を自然の背景に見るのか . . .皆さんはどう考えるでしょうか。
哲学的な思索はここまでにしてセミたちが地上に現れる映像を見ての感想です。地上に現れるセミの数といったら . . . そこらじゅううじゃじゃ、地面には足の踏み場もない、木という木はセミの幼虫で覆われていました。ちょっとグロテスクなぐらい . . . よく見ると後から登ってくるセミにぶつかれてポトっと落ちてしまうセミ。地上に現れた瞬間に天敵に食べられてしまうセミ . . . 見てて可哀想になってしまいました。せっかく13年も待って満を持して登場したらほんの数分で目的も達成できないまま死んでしまうセミたち。でもそこにセミの戦略があります。途中で命を失ってしまう個体の数を遥かに凌駕する数を地上に送り出すこと。多少の損失は想定内と言うか。自然の世界で良かったなぁ〜、セミが人間だったら大変だ . . .とふと思いましたが、実はそうでもないかもしれません。個々人の価値を度外視してとにかく目的を達成することを優先する、多少の命は失っても全体のためには仕方がない、目を瞑ろう . . . まさに戦争の論理です。もう皆さんも分かるでしょう。戦争というものが命の価値と尊さを踏み躙る非人間的なものかを。今年のノーベル平和賞は日本被団協が受賞しました。世界の平和への希求の高まりの結果でしょう。命の与え主である神様はパレスチナやウクライナなどで亡くなっている一人一人とその家族をどんなに悲しんでいることでしょうか。