2025年度「高校卒業式の言葉」
60期の皆さん、卒業おめでとうございます。
みなさんにとってサレジオでの6年間はどのようなものでしたか? コロナ禍の中での学校生活でできなかったこともあったでしょうが、それでも自分としてやり遂げたこともたくさんあったのではないでしょうか。サレジオでの6年間は文字通り皆さんの成長の軌跡です。遡れば6年前中1の入学式から、それこそ笑いあり、涙あり。そして自分のそばにはいつもいい仲間たちがいたのではないでしょうか。皆さんは今日サレジオ学院の課程を修了していきますが、それは同時により高いステージへのスタートでもあります。まだまだ皆さんは発展途上、人生の本番はこれからです。
節目の時、これからの人生を自分のものとして歩んでいくために、あえて目を上げ、広くこの社会、この世界を見るようしてください。そしてそこにある様々な問題に対して自分としてどのような答えを出せばいいのかを立ち止まって考えてみてください。たとえそれが自分一人ではどうしようもないような大きなことであったのにせよです。それはひるがえって「自分とはどんな存在なのか」という「召命」に対する問いともなります。
教皇フランシスコは昨年7月に、全世界の教会の人々に対して一つの手紙を書きました。その手紙のタイトルは『希望は欺かない』というものです。実は「希望」という言葉は聖書の中に数多く登場します。キリスト教は「希望の宗教」とも言えるでしょう。でも一つ考えてみてください。「希望」という言葉が必要なときはいつでしょうか? 楽しいとき? 苦しいとき? 万事うまくいっている時にあえて「希望をもたなきゃ」とは思わないでしょう。反対に辛い時、悲しい時こそ「希望を捨てちゃダメだよ!」とお互いに励まし合います。「希望の宗教」であるキリスト教はこの世界の不正、矛盾、悲惨さ、悪、そしてそれによって苦しむ人々と向き合います。ですからキリスト教は「希望を伝えようとする宗教」と言った方が正確でしょうか。先ほど紹介した『ローマの教会への手紙』では「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を産む」(5章5節)とパウロは言っています。
とはいえ苦しむ相手に「希望を持とう!」と言うのはなかなか難しいものです。「こんなこと安易に言っていいのかな」と躊躇してしまうかもしれません。あるときは「希望を伝える」のは言葉ではなく黙ってそばにいることかもしれません。
そんなことも分かっていてフランシスコ教皇はあえて「希望は欺かない」とおっしゃいます。「希望は欺かない」、とても重い言葉です。教皇は手紙の中で彼は「希望の最初のしるしは、世界の平和といいうるものです。世界は今また、戦争という悲惨さの中に沈んでいます。」と言います。希望と悲惨さ、相反する言葉を一つの文脈の中に並べることによって教皇フランシスコは私たちが持つべき姿勢を示しているように思います。現実をしっかり見つめることを通してこそ真の希望が発見できる、と言いたいのでしょう。そしてさらに「希望をもって将来を見つめること、それは伝える熱意に溢れた人生観を持つことでもあります」と教皇は続けます。25才に向けて大きな宿題を与えられたように感じませんか?「希望を持つ」「希望をしっかり持てる基盤を持つ」、「そしてその希望を苦しんでいる人に伝える」、これはミッションスクールであるサレジオを卒業していくみなさんの「召命」となっていきます。
ドンボスコの「世界中の若者が幸せになってほしい」という夢の続きを担うサレジアンの皆さん、ドンボスコの夢を自分の夢としてここからの人生を歩んでいってください。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」(ローマ人への手紙12章12節)。ご卒業おめでとうございます。