「同じ風景を見ても人によって見え方は違う」
終業式の話
この1学期無事に終わることができたことに感謝をして「主の祈り」を唱えましょう、
さて今日は「同じものを見ても人によって見え方が違う」ということを
3つのケースから考えてみましょう。
最初のケースです。
友達と一緒に旅行に行って、とても美しい景色を見たとしましょう。
帰ってきてその感動を伝えるA君。
「すげ〜」「やべ〜」「感動した〜」を連発しています。
聞いている人はどんな風景か分かりませんし、感動も共有できません。
B君は「いや〜まさに、『春はあけぼの。ようよう白くなりゆく山際すこし明かりて、
紫だちたる雲の細くたなびきたる』だったよ」と言います。
相手は一瞬でその景色が浮かんできます。
「同じものをみても人によって見えかたが違う」わけです。
見え方の違い、それは他者にとっては表現の仕方の違いです。
「すげ〜」「やべ〜」では伝わりません。
きちんとした言葉にすることによって初めて感動は相手に伝わるものです。
相手にわかるように伝えること、これは皆さんに是非つけてほしい技術です。
実は今年度定期試験には「記述問題」が必ず入っていたことに気づいたでしょうか。
これは皆さんに「人に何かを伝えることの難しさ」、「書くことの大切さ」を意識してほしいからです。
2つ目のケース。
これは自分が人から見られているという立場での自分の経験です。
「他人の視線」とも言えるかと思います。
皆さんは「自分を見る相手の視線が痛い」という経験をしたことがあるでしょうか。
前に大学生を連れてボランティア活動でフィリピン・ネグロス島に行った時のこと。
田舎で観光客なんて全くいない村でした。その村の市場で。
市場で行き交う人がみなチラッと自分を見るのです。その「チラッ」という視線がすごく痛いんです。
当然村の人には悪意はないと思います。「なんでこんなところに外人がいるの?」と思ったのでしょう。
皆さんは「自分が外人である」という経験をしたことがあるでしょうか。
自分がマイノリティーである、なんとなく拒絶感を感じたことがあるでしょうか。
厚い壁の経験です。フィリピンでもマニラは違います。
アメリカのショッピングセンターでも誰も自分に注意を払いません。
ある意味人々の間に完全に埋没している心地よさを感じました。ある意味溶け込めているという感覚。
でもネグロス島では違いました。壁と拒絶の視線。
たった一瞬の視線でも人を傷つけることがあるということを知りました。
ほんの一瞬の小さな行為が人に対しての拒絶の表明となることを知ってください。
3番目のケースはイエス様の「視線」です。
ある時イエス様は弟子を連れて神殿に行きました。聖書を読んでみましょう。
「マルコによる福音書」12章41節〜44節です。
多くの人が行き交う神殿、みんなが賽銭箱にお金を投げ込んでいます。
みんなは金持ちの多額な寄付に目を奪われていました。
でもイエス様は一人の貧しい老女に気づきました。
老女の入れた貨幣はレプトン銀貨2枚。とても小さな単位の貨幣です。
でも貧しい人にとってはその日財布の中に持っていたすべてのお金です。
何も持っていなくても神様が計らってくださる。神様への信頼からの行為でした。
イエス様だけがその様子を見て、そこから彼女の心を察しました。
その女性の神様への深い信頼の心を見て取ったのです。
神様にとっては大切なのは金額の大きさではなく、どれだけ信頼の心があるかということです。
みんなが見ていた同じ風景でもイエス様だけが老女の気持ちが分かったのです。
私たちもイエス様の視線を持ちたいものです。
人の小さな行為の中に宿る善意を見逃さずそれを感謝の心をもって見守る。
小さな善意にリスペクトを払える、そのような人になりたいですね。
さて夏休み、いろんな経験をするでしょう。
今日お話ししたことを心に留めて小さなところに宿る価値観を大切にしてください。